エヴァ終劇

こんにちは、技術部のOです。


先日、『シン・エヴァンゲリオン 劇場版』を観に行きました。


この作品は1995年にTV放映されたロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のリメイク4部作、

いわゆる新劇場版シリーズの最終作です。

TV放映は勿論のこと、この新劇場版シリーズもリアルタイムでは追っていませんでした。

『新劇場版:Q』が公開されて一年ほど経った後に開催された原画展に友人から誘われ、

その予習を兼ねてTV版、旧劇場版、新劇場版と一気に観たのが私のエヴァ歴の始まりでした。

(と言ってもそこから寝ても待てども新作は公開されないのですが…)

 

血生臭く凄惨な戦闘描写、主人公の精神が擦り切れていく様子、一見して理解できない・救いのない結末…

と兎に角物語全体が暗く、一気見してしまった衝撃は色濃く、

また当時最新作であった『Q』は本当に同じ作品か?と疑うほどにストーリーラインが変更され、

ネットでは叩きに煽りに罵詈雑言の嵐。

とんでもない作品と正面衝突してしまい(おまけに続きはいつ見られるのか分からない)、

大学一年生の夏休みはモヤモヤしながら過ごしたことを覚えています。

 

 

 

それから8年弱が過ぎ当時の衝撃も漸う薄れ、

巷では「最早終わらせる気がない」等とネタにされることが常態化する頃になってとうとう公開を迎えました。

自分の関心はストーリー以上に作り手と観客との関係をどう決着させるのかという点にありました。

 

結論だけ書くと、物語は非常にポジティブに終わったと感じました。

多くの登場人物のセリフに「落とし前をつける」といったフレーズが繰り返し使われ、

物語を決着させると同時に作り手と観客の関係を精算するという意気込みがあり、

前に進んでいこうという結末に8年待った甲斐があったと思いました。


そしてこの結末へ向かうまでに、手描き、止め絵、3DCG、ラフ・絵コンテのようなもの、

旧シリーズからの引用、特撮、果ては実写と、素人にわかる範囲だけでも実に様々な映像の手法が使われているのですが、

観客を飽きさせないどころか実験映画の領域に踏み込んでいくかのような情報量にも驚かされました。


どうしてここまでの熱量・情報量になったのかという疑問は、

庵野監督を追った(1214日間!)TV番組「プロフェッショナル」の中で垣間見ることができました。


そこでは、

「自分の考えている以上のものは出てこない。」(からこそ、考えている以上のものを追求したい)


「伝わっていない、面白くないならゼロから作り直す。」


「始めてしまったので終わらせる義務がある。」

 

など、いくつか印象的な言葉や考えの実践がありましたが中でも強烈だったのがこちらの発言↓

 

「自分の命と作品を天秤にかけたら作品の方が上なんですよ。」

 

「作品の方が上にある」という信念が、

長期間の制作や徹底した映像の作り込みに現れていたのだなと分かります。

 

また、「ポジティブを伝えるには自分の中にポジティブがないと嘘になる」と述べる場面もあり、

嘘にならないポジティブを手に入れたからこそ生まれたのが今回の結末であったと分かりました。



さて、波乱を呼び起こし続けてきたエヴァが真っ当な終わりを手に入れました、めでたし。

 

ということで今回は結びにしたいところですが、もう一つだけ書いておくことがあります。

そう、この映画には「なぜか」紙の写真が出てくるのです。

ここまでネタバレも考察もしてこなかった分、多少のこじつけともに、

なぜ紙の写真が出てくるのかについて考えます。

写真は2枚あり、どちらも民間人・家族から死地へむかう戦艦クルーに向けた私信という、

ありきたりな演出のような形で登場します。

*パンフレット。膨大なインタビュー量から作品への熱意が伝わります。

タイトルロゴは特殊な印刷だとかで、七色に光ります。

 

 

 


https://youtu.be/3tyYvoIlroM

*公式予告動画「追告B」より引用、写真が登場するのは15秒あたり。

 


紙の写真の登場に疑問符が付くのは、「作品世界に合っていない」からです。 (こじつけ1)。


主要人物の周りには巨大ロボットや空飛ぶ戦艦といったオーバーテクノロジーが溢れています。

SF作品らしく写真もARやVR、ホログラフィック、

そうでなくてもデジタルデータをタブレットで見るなど、雰囲気とマッチする演出があるはずです。


また、作品世界はポストアポカリプス、俗にいう終末ものの世界であり、

民間人は医療機器や環境管理システムなど一部で高度なテクノロジーを利用しているものの、

基本的に配給と自給自足で生活を営んでいます。

人間が生活できる土地は限られ、物資も乏しい厳しい環境であるにも関わらず、

ペーパーレスという選択をしていないわけです。

どちらも大写しになるのは一瞬です。

しかし、1枚目の写真のシーンはパンフレット内、

葛城ミサトを演じた三石さんのインタビューページ最初のカットに

(他に見せ場が多くあるにも関わらず)採用され、

2枚目の写真のシーンは、直後のシーンでキャラが泣き崩れるという大きな演出のトリガーになっています。

考えている以上のものを作りたいはずなのに、作品世界の状況を無視してありきたりな演出になっている。

だがその写真の扱われ方やその後のシーンからは、

「写真によるありきたりな演出」以上の意味を感じます。(こじつけ2)

 


では紙の写真であることの意味は何でしょうか。

一つ目は単純に「手間がかかっている」ということ。

撮ってデータを送って終わるのではなく、紙に出力する手間(ポストアポカリプスなら尚更手間がかかる?)、

それを人伝に届けてもらう手間。

写真を送る側にかかる手間には、写真を手に取れるモノとして届けたいという思いがあるのです。

もう一つは、受け手にとって手に取れる写真が「代替の効かない」モノになりうるということです。

写真それ自体の特質は、オリジナル(被写体)のコピーであり、複製可能なモノとして扱われることが多いです。

しかし個別の写真で見れば、受け手にとってはたった一枚のオリジナルと捉えることができます。

2枚目の写真の手書きのメッセージがその代替不能性を顕著に示していて、

ここでは家族という代わりの効かないものとオーバラップして、

写真自体が家族と同義の掛け替えのないものとして存在しています。

以上のことを鑑みると紙の写真が出てきたことにも納得できます。

デジタルデータのままでは有り得ない効用が紙の写真にあるということを

作中のキャラもよく分かっていたからわざわざプリントアウトしたのでしょう、流石です。

 

 


面白い映画を見たという以上に色々と考えることが生まれた作品でした。

 

ありがとう、そしてさようなら、全てのエヴァンゲリオン!

 

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