望郷

いつかのラジオから

「コロナウィルスも生き残るのに必死なんです。だから変異するんです。」

と聞こえてきた。

変異から進化に進む前に早く収束すれば良いと願うこの頃で、

日々の生活もすっかりコロナ基準になってしまいました。

昨年の今頃は「来年のGWこそは実家に帰ろう」とか家族とも話してたけど、

この文章を書いている時点で無理そうで。

お家時間が長くなると、

せっかくだから家の掃除をしようと始まり、

なんちゃってこんまり的な事も始めるのですが、

何を手に持ってみてもトキメキが消せない。

断捨離あるあるで別れを告げようと思う時ほど思い出が蘇ってきて、

まあ本当に要らなくなったら自然と捨てれるでしょう。と

負のポジティブ変換が始まってしまう。

自分のような人間は一度仏門にでも入って、

何も無い生活というを体験してみてミニマリズムの美しさを体感してみた方が良いかもしれない。

(かと言ってその主義ばかりを賛美するわけでも無いのですが。)

毎度そんな事を考えてはいるものの、家族の前では絶対に言わないようにしている。

一度あまりに他人の定規では不要な物が家に増え過ぎてしまい(自分にとっては必要なもの)

「何も持たない生活」を体感させるために唐突に家を閉め出された事があるからだ。

もしもまたそんな事を軽々しく口にしたなら、コロナ明けには何処かの宿坊に入れられそうだ。

恐山の宿坊だけは勘弁して頂きたい。

でも確かに閉め出し時は日常では埋もれてしまいそうな考えなど浮かんだりしていた。

パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない。じゃないけれど、

捨てられないなら溜め込んでみればいいじゃない。という反こんまり論に至った。

逆に溜め込む意気込みで断捨離してみたらどうだろうかと…。

思い出呪縛がとれたのか、

「いや、さすがにこれは要らないなぁ」

と思えるものが増えてきて不要箱に入れれる物が増えてきた。

野良猫を拾い過ぎて、新たな野良猫がきた時に飼えない理由を正当化するのに似ている。

「もう飼うスペース無いからゴメンな」と。もう置くスペースがないのだ。

その流れもあり溜まってしまった写真データなども整理しようと思いハードディスクの中も調べていた

ちょうど遡る事コロナ自粛前に実家に家族で帰った時の写真が出てきたのでそちらを懐かしんで。

その時以来田舎にも戻ってないんですが。

田舎の両親に子供を会わせたいのだけど、このままだとお互い全くの別人になってからの再開もありそうで。

久しぶりの再会で、罵詈雑言を吐き出すような子供になっていたら少なからず田舎の両親もショックを受けるだろう。

今ならまだ可愛いですまされるけど、言葉の意味を理解してからとでは傷の深さが違う。

故郷T市は日本のロンドンと言われるほど(一部の人間が言っているだけです)、

快晴という言葉が無く、晴れの日も何かもやもやしている。

この地を離れて20年以上にもなるけど殆ど景観も変わっていない。

よく行っていた海岸も、多少は海面水位が上がって砂浜が狭くなった感じもする。

帰る度に学生時代の頃を昨日の事のように思い出す。

もっと犬を散歩に連れていってあげれば良かった。

停泊所の船も当時から置きっぱなしではないかとも思う。

浜辺では太公望も見かけるけど、魚を釣った事よりも、釣りをした。

という満足感が最優先されているようで釣れなくても悔しがる人はいない。

それも昔と変わらない。

田舎にいる時は都会生まれが羨ましかったけど、帰れる場所があるのもまた良いと感じる。

田舎と動物園を恋しく感じたら老化の始まりと聞いたことがあるけれど、

ここまでくると変に区画整理などせずに田舎はこのまま落ち着ける場所であって欲しいと思う。

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